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音、もうひとつの物語(その1)

音響設計の菊池信之です。

 この中国の映画と日本人の私の出会いは、2007年の山形ドキュメンタリー国際映画祭の時だった。この作品がアジア千波万波の部門に出品されていた時に、私も映画祭企画の「音マスタークラス」と「音のクリニック」というワークショップに講師として参加していて、監督も制作中の作品をもってワークショップの受講生として参加していました。

 監督、馮艶(フォン・イエン)はこの「長江にいきる 秉愛の物語」を「秉愛」という作品名で出品していましたが、それは長年一人で撮影を続け、音はカメラに付いているマイク(カメラマイク)だけのものでした。その作品の音について私は問題を感じなかったのですが、それでも彼女は「技術的側面」の目に見えない(不要な)不安を持っていたようでした。しかし、その作品は、問題を感じないばかりか映画祭が終わってみれば小川紳介賞(グランプリ)とコミュニティシネマ賞を受賞したのでした。

 その作品に対して、ある人が先輩ぶって監督馮艶に言ったのです。映画の中の1シーンで風にマイクが吹かれていたところを指して「もっとスタッフを揃え機材を用意しその体制をとって撮影しなければいけない、そうしないと、風が強いときに、きちんとした音がとれない」と。
 何と親切なご意見。技術に対する意見は大方こんな風に、可能性を狭めていく事が少なくない。そして、そんな意見は先輩と言われる人から語られるから始末が悪い。
 機材を揃え、スタッフを揃えて撮影したら確かに明瞭な音はとれるかも知れないが、そんな事ではこの作品は成立しない。この作品に限らずそんな事では成立しない作品は数多くある。

 私がこの仕事に関わった主たる理由はその修正や補正の為ではなかった。
 映像では語りきれない、「もう一つの物語」としての音の仕事をしてみたいと思った。現実に聞こえる(収録された)音ばかりでなく、その環境を取り巻く音、人物を取り巻く音、その人物に聞こえたであろう音、あるいは聞こえなかったであろう音、、、それらの作業を積み重ねて行けば映像だけでは見えない、その人の感情、背景、そして物語の奥行きが見えてくる。私はこれが音の「もう一つの物語」と考えている。ワークショップでの私の話もそれが中心だった。

 しかし、仕事をするには経費がかかる。まして、個人で長年コツコツと作ってきた制作者(監督)にその経費が出せるわけがない、と私は勝手に思った。
 そこで日本で公開を企画し、その後にその収益から経費を捻出すればこの仕事はできるのでないかと監督に提案をした。リスクは負うものの、制作者に負担をかけずに公開できるのではないと思った。この提案がこの映画に関わるキッカケだったと思う。
 しかし映画を公開して宣伝経費を回収するだけでも大変な事だ。私は「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)の公開にも関わったのでそれを知らない訳ではなかった。公開にあたっての拠り所があるわけでもなかったのでその提案は「根拠のない楽観主義」と笑われた。しかし「創る事」と「見て貰う事」はどうしても切り離せなかったし、同一の欲望の事で動いてみたかった。映画は見て貰って完成する。

 この映画祭で音レクチャーの企画者でもあった藤岡朝子さんも、若いアジアの作家達を映画祭で「作品を祝福」するばかりでなく、作る、見せるという事のより具体的なサポートが出来ないものかという意見をお持ちだった。映画祭終了後、配給、宣伝に向けての相談がはじまった。資本があるわけでなく、文字通り暗中模索だった。だが山形映画祭事務局の濱治佳さんが加わり、藤岡さんが中心となるドキュメンタリー・ドリームセンターが発足し、宣伝の原田徹君が入って配給宣伝の拠点が出来た。
 こうして「音の仕事」は始まった。
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      菊池信之さんによる音のマスタークラス(YIDFF2007)
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      たくさんの人が聞きに来てくれた
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      アジアの作り手に絞ったワークショップも開催された
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      フォン・イェン監督は音の編集での迷いを熱心に質問した

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by bingai | 2009-01-26 12:28
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