先行上映会のドキドキ

DDセンターの藤岡です。

1月28日・29日の二晩、映画館ユーロスペースさんのご好意で、特別に先行上映会を開催しました。マスコミ試写会は満席に次ぐ満席で、噂を聞きつけた一般の方々から聞こえてきた「早く見たい!」との声を受け、ロードショー前はなるべく見せない、というアート系映画業界の常識を覆し、やってしまいました。
映画評や記事がまだほとんどマスコミに出ていない(公開直前にドッと出るように、宣伝マンが調整してくれるのです)ときに、数百枚のチラシとホームページだけでどれだけの人が来るのか? 平日の夜11時終了という遅い時間で? ロードショーと同じ有料料金で? 

結果、140席がいっぱいになる、というわけにはいきませんでしたが、両日とも安定した動員で、しかも熱い感想のアンケートが手元に残りました。

ビンアイさんはまだ生きていますが、私は言いたい。「あなたは骨身を惜しまず、よく夫やこどもの面倒を見ましたね。そして、理不尽な政府の要求に身をもって抵抗しました。あなたのような人が中国を少しずつでも風通しのよい住みやすい国にしていくのだと思います。娘さんと息子さんはお母さんとお父さんの姿を見て力強く生きていって欲しいです。」

ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』を観ていたので、そこに生きている人たちの「現実」を知ることができるかしら?と思って観たのですが、こんなにも横暴で非情な「現実」だったなんて…。私だったら、彼女のように抗うことができたかしら?強く生きていくしかない女性の姿に、「負けるな!加油!」と心から送りたいです。


それにしても。本番のロードショーまであと一ヶ月ですが、上映をする度にドキドキ度が上昇する気がします。この映画が一般のお客さんと出会っていくことを、強く意識するようになっているのでしょう。何人くるだろう、どんな人が来るだろう、おもしろく感じてくれるだろうか、部屋は寒くないだろうか、音量は十分だろうか。
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先行上映に来てくれた方には、出口でささやかなお礼をさせていただきました。インフルエンザが流行っています。皆さんにもビタミンCと秉愛の生きるパワーを!
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# by bingai | 2009-02-06 17:36

音、もうひとつの物語(その1)

音響設計の菊池信之です。

 この中国の映画と日本人の私の出会いは、2007年の山形ドキュメンタリー国際映画祭の時だった。この作品がアジア千波万波の部門に出品されていた時に、私も映画祭企画の「音マスタークラス」と「音のクリニック」というワークショップに講師として参加していて、監督も制作中の作品をもってワークショップの受講生として参加していました。

 監督、馮艶(フォン・イエン)はこの「長江にいきる 秉愛の物語」を「秉愛」という作品名で出品していましたが、それは長年一人で撮影を続け、音はカメラに付いているマイク(カメラマイク)だけのものでした。その作品の音について私は問題を感じなかったのですが、それでも彼女は「技術的側面」の目に見えない(不要な)不安を持っていたようでした。しかし、その作品は、問題を感じないばかりか映画祭が終わってみれば小川紳介賞(グランプリ)とコミュニティシネマ賞を受賞したのでした。

 その作品に対して、ある人が先輩ぶって監督馮艶に言ったのです。映画の中の1シーンで風にマイクが吹かれていたところを指して「もっとスタッフを揃え機材を用意しその体制をとって撮影しなければいけない、そうしないと、風が強いときに、きちんとした音がとれない」と。
 何と親切なご意見。技術に対する意見は大方こんな風に、可能性を狭めていく事が少なくない。そして、そんな意見は先輩と言われる人から語られるから始末が悪い。
 機材を揃え、スタッフを揃えて撮影したら確かに明瞭な音はとれるかも知れないが、そんな事ではこの作品は成立しない。この作品に限らずそんな事では成立しない作品は数多くある。

 私がこの仕事に関わった主たる理由はその修正や補正の為ではなかった。
 映像では語りきれない、「もう一つの物語」としての音の仕事をしてみたいと思った。現実に聞こえる(収録された)音ばかりでなく、その環境を取り巻く音、人物を取り巻く音、その人物に聞こえたであろう音、あるいは聞こえなかったであろう音、、、それらの作業を積み重ねて行けば映像だけでは見えない、その人の感情、背景、そして物語の奥行きが見えてくる。私はこれが音の「もう一つの物語」と考えている。ワークショップでの私の話もそれが中心だった。

 しかし、仕事をするには経費がかかる。まして、個人で長年コツコツと作ってきた制作者(監督)にその経費が出せるわけがない、と私は勝手に思った。
 そこで日本で公開を企画し、その後にその収益から経費を捻出すればこの仕事はできるのでないかと監督に提案をした。リスクは負うものの、制作者に負担をかけずに公開できるのではないと思った。この提案がこの映画に関わるキッカケだったと思う。
 しかし映画を公開して宣伝経費を回収するだけでも大変な事だ。私は「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)の公開にも関わったのでそれを知らない訳ではなかった。公開にあたっての拠り所があるわけでもなかったのでその提案は「根拠のない楽観主義」と笑われた。しかし「創る事」と「見て貰う事」はどうしても切り離せなかったし、同一の欲望の事で動いてみたかった。映画は見て貰って完成する。

 この映画祭で音レクチャーの企画者でもあった藤岡朝子さんも、若いアジアの作家達を映画祭で「作品を祝福」するばかりでなく、作る、見せるという事のより具体的なサポートが出来ないものかという意見をお持ちだった。映画祭終了後、配給、宣伝に向けての相談がはじまった。資本があるわけでなく、文字通り暗中模索だった。だが山形映画祭事務局の濱治佳さんが加わり、藤岡さんが中心となるドキュメンタリー・ドリームセンターが発足し、宣伝の原田徹君が入って配給宣伝の拠点が出来た。
 こうして「音の仕事」は始まった。
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      菊池信之さんによる音のマスタークラス(YIDFF2007)
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      たくさんの人が聞きに来てくれた
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      アジアの作り手に絞ったワークショップも開催された
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      フォン・イェン監督は音の編集での迷いを熱心に質問した

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# by bingai | 2009-01-26 12:28

フォン・イエン監督 WEBラジオのインタビュー

WEBラジオ「blue radio」の烏賀陽弘道のU-NOTEでフォン監督のインタビューが聞けます。(視聴には会員登録が必要です)

http://www.blue-radio.com#more



ご一聴ください。
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# by bingai | 2009-01-22 19:12

馮艶が、監督だってえ!(緑の地球ネットワークのメルマガ)

DDセンターの藤岡です。中国山西省大同市の黄土高原の農村での緑化協力活動をおこなっているNGO「緑の地球ネットワーク」の高見邦雄事務局長がメルマガ『黄土高原だより』で、旧知の馮艶(フォン・イェン)監督との交友について書いています。

こちらへ:
http://blogs.dion.ne.jp/koko_tayori/archives/7986315.html#more

長年にわたり、中国の農村に通い植林ワークショップなど民間の交流事業を進める息の長い活動をされているNGOです。

昨年11月に放送された、BS朝日開局8周年記念番組
「よみがえれ!緑の大地-中国黄土植林プロジェクト17年目の挑戦」(ナビゲーター・宍戸開)の再放送がまもなくあるそうです。

2月1日(日)21:00~22:55(約2時間)
BS朝日(衛星デジタル5チャンネル)
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# by bingai | 2009-01-22 15:14

ビンアイとの出会い/思い出あやふや

監督のフォン・イェンです。

インタビューやQ&Aの時に、一番最初に聞かれる質問は、往々にして「どうやってビンアイさんと知り合ったか」である。最初は一所懸命当時のことを思い出して話すが、だんだん話しになれてくると、出会い説が定着してきて、「実は最初に出会ったのは…」と、不思議なほど自信満々に「事実」を述べていく自分に、みずからはっとしてしまうことが多い。

95年の初期頃の日記に、ビンアイが初めて登場したのは、こういう場面である。
「この日の夜、村役場で新聞を読んでいると、農民夫婦が梅さん(注:当時、村に派遣されてきた移住動員幹部)を訪ねてきた。私は新聞に夢中になり、彼らは梅さんとどんな話しをしたかまったく聞いてなかった。彼らが帰るころに不意に頭を上げると、男の目に涙がくくんでいるのが見えた。夫婦が帰ったあと、梅さんに「あなたはひどい人ね。男まで泣かせた」と言うと、梅さんは「違う。彼らは移住者で、家が貧乏で旦那が病気だし、村に残りたいからお願いしにきた」と説明した…」

これはビンアイ夫婦をみた最初だとずっと思っていたが、編集台で、思わずビンアイの夫がそれよりずっと前に登場していたことにびっくりした。

桂林(けいりん)村に入った初期頃、私はしばらく顔道珍(Yan Dao’zhen)さんというビンアイの隣人にフォローして撮影していた。ある日、村役場で村民の移住証書の内容を確認する作業が行われた。それに行ってきた顔さんが、家に消息を聞きに来た村人たちに、そのときの様子を話す。それを撮影している途中、フレームの脇に男が現れ、カメラに向かって「生まれ育ったところが水没することがとても惜しい。対岸から撮った村全体の写真が記念にしまいたい。写真代を出すから、撮っていただけないか」とお願いする。「お金は要らないが、名前と住所を教えてください」というと、男がしばらくして、タバコの箱紙の裏に書いた住所と名前を持ってきた。農村で撮影するとよく出会うことで、当時は名前も顔も覚えないままタバコの箱紙をポケットにしまったまでだが、編集のときにビンアイの夫だと気がついて、びっくりしたわけである。

以上は「記録された」最初の出会いなわけだが、ビンアイと私の記憶での出会いは、案外一致している。

「ある日、バケツをぶらさげて豚に餌をやりに行くと、道の向こうからカメラをぶら下げたあなたが歩いてきた。ああ、あの写真を撮る人だと気がついて、声をかけ、家に遊びに来なさいと誘いました」とは、ビンアイの記憶である。

確かに私もそう覚えている。はっきり覚えている理由は、当時思い求めたシーンを逃したため悔しかったからである。あの日、もう一軒の家へ行こうとする途中、ビンアイと出会って、誘われたが、硬直頭の私が素直に応じず(いや、むしろその時は、「典型的な」移住家族を撮りたい一心で、ビンアイにまったく関心がなかったと言うべきかもしれない)、「後で」と答え、行きたい家に行ってから礼儀でビンアイの家に寄った。私が行ったときはちょうど説得しにきた幹部たちが帰った直後で、悔しかっただろうか、ビンアイがタオルに顔を埋めて泣いていた。

このシーンは「記録」されてはいないが、私の脳裏に深く刻んでいる。ビンアイ一家を撮った膨大な量のビデオテープの中で、あんなに泣き崩れたビンアイはワンカットもない。唯一カメラに「記録」されたビンアイの涙は、川辺で初恋の思い出と願わなかった結婚を語ったときの、ちょいとこぼれたものだけだった。

映画の中のビンアイ像は、凛としていて強い。時には土着の哲学を語っては、見る者を唸らせる。だけど、私のこころの中のビンアイは、そういう映像に記録された姿以外、もう一つの、時には非常に脆く、いつでも壊れそうで、誰かにすがりたい女でもある。そしてときには、それがほんとうのビンアイの姿なのかもしれないと思ったりもする。

ビンアイと知り合ってから13年もすぎたが、これまでの付き合いの中で、彼女が泣いた記憶は2回だけである。一回は先ほど書いた幹部が帰った後で、もう一回は96年に、村の一回目の移住が終わったとき、3ヶ月ぶりの家路に急ごうとする私を止めようとして、船乗り場までついてきたビンアイが、「どうしてもう一日長くいられないの」と、あわてふためいて(周章ろうばいして)川辺の石に座って泣く姿である。むろん、これも撮っていない。

「人は出会いたいから出会えるものである」とよく言われる。私たちの生活の中で、自分の目標に突き進む中で、不意に見落とされた出会いと擦れ違った人生はどれほどあるのでしょうか。幸か不幸か、私の手にはカメラがある。100%でなくても、事実の一部は写し取られている。映像はほんとうに恐ろしいものである。私たちのあやふやな記憶を、いかにも「事実」のように「存在」するからである。だけど、人との出会いは、一生かかるもんだと思う。「あなたと出会うまで…」と歌の中で歌ったように、ビンアイ、あなたとの出会いの旅は、これからも続くだろう。
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# by bingai | 2009-01-20 16:44

ああ、日本のどこかで

DDセンターの藤岡朝子です。
昨日、山形映画祭の理事会に出席するため、東京から新幹線に乗って白銀世界へと赴きました。日が落ちて夕闇が町を覆うと、急速に深深とした寒さが足元から染み入る、北国の冬です。

最後に山形に行ったのは、昨年の晩夏でした。フォン・イェン監督の来日に合わせて、山形映画祭事務局が「長江の夢」(1997年作品)と「長江にいきる」(2008年作品)の二弾上映を企画してくれたのでした。山形映画祭にいらしたことのある方にはお馴染みの会場、中央公民館(アズ七日町)4階の大会議室での上映会です。

たくさんの懐かしい顔が集まり、また新しく若い人たちと知己も得ました。二つの映画は、「想い溢れるとき」というテーマでくくられ、トークショーも企画されました。フォン・イェンとトークした二人の20代の方は、引きこもりの若者の居場所づくりをするフリースペース「ぷらっとほーむ」の代表松井愛さんと、山形のお米をおいしく食べてもらうためのおにぎりやお餅のカフェ「森のたんぼ」の経営者後藤周一さん。山形映画祭で「私も映画を作りたい!」との溢れる想いに衝かれたフォン・イェンと共に、その活動への熱い(そして時には揺れる)想いを語ってくれました。

長江に暮らす人たちについての映画のトークショーとしては、とてもユニークで、素敵な企画でした。

フォン・イェンは2007年の山形映画祭で、アジア千波万波部門の最高賞、小川紳介賞を受賞し、AZ6階の舞台上で「感無量です」とスピーチをしました。小川プロの映画を初めて見た1993年の山形映画祭から14年、何度も足を運んだ憧れの「映画学校」で栄光の評価を得たわけですが、その原点は「私も作りたい!」と行動を起こした「溢れる想い」です。京都大学博士号に背を向け、カメラを抱えて中国の農村部に通い続けた「無謀な」しかし「やらずにはいられない」衝動を、実らせたその粘りと実力はすごい。

この山形という土地は、映画の都ともドキュメンタリーの聖地とも言われることがあるのですが、その実は時計屋さんや果樹園やカフェ経営や新聞記者など、数多くの一般の人たちが映画祭を応援し、映画を作る人たちを見つめ続けてくれているからなのです。彼ら一人ひとりも、映画を作る情熱と同じような熱い想いで日常生活を送り、自分の人生を切り開いている。そんなことに改めて目を向けさせてくれる、この企画に私も感動しました。

私がアジアのドキュメンタリーを応援してきているのは、映画作品がおもしろくて、得ることが多いからでもあるのですが、やっぱり、一銭にもならない映像づくりを、逆境の中でもやらざるを得ないと感じて動く人たちの人間的な魅力に取り込まれているからなのでしょう。そして本当は、日本全国でも、今もどこかで溢れる想いに動かされている人たちがいるのですね。


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# by bingai | 2009-01-18 12:31

三峡を二通りに見る

DDセンターの藤岡です。
1月12日(祝)に、渋谷UPLINK FACTORYでフォン・イェン監督の初長編『長江の夢』(1997)の上映がありました。<月刊ヤマガタ>という定期上映会の1月企画で、40人以上ものお客さんが来てくれました。

60代のご夫婦らしきカップルや大学生のシネフィルさんまで、実に幅広い観客層だったのが、「長江」や中国ドキュメンタリーへの関心が広がっていることを感じさせてくれます。ワンドリンクつきのイベントなので、バー・カウンターで見ていたら、この日は何故かノンアルコールを頼む人が多いように思えました…。ん?

上映後は休憩を挟み、写真家の小川康博さんの写真を大画面で見せていただきました。小川さんは2002年来、長江の三峡地方へ撮影に通い、昨年『Slowly Down the River ―往にし方の三峡をめぐる旅』という写真集を出版。この日もこの中から写真を40点、スクリーンに投影し、解説つきで見ることができました。

このときは私が司会だったので、トークの内容について記憶があいまいなので、どなたか「コメント」で報告をお願いします。また、私はトークのあまりのおもしろさに、トーク風景の写真を観客席から撮ってもらうのを忘れてしまいました。なので、写真はありません、あしからず。

でも、現代中国の不条理な現実について、そしてフォン・イェンも共感するであろう映像を使った創作活動の魅力について、いろいろと触発され思考が広がる、とてもいい会でした。小川さん、ありがとうございました。その後、10人ほどで打ち上げに激安居酒屋「三平」に行き、恐らく中国産であろう様々な食べ物をいただきました。

小川康博さんの公式ホームページ:
http://www.ogawayasuhiro.com

藤岡朝子
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# by bingai | 2009-01-14 20:38

フォン・イェンとの出会い(藤岡朝子)

謹賀新年

 春節のひと足はやく、日本の正月です。
 配給のドキュメンタリー・ドリームセンターの藤岡朝子です。
 今日は、「長江にいきる 秉愛の物語」を配給することになった経緯について、少し書いていきたいと思います。

 私は1993年から山形国際ドキュメンタリー映画祭の東京事務局でスタッフをしています。
 この映画祭は1989年から山形市で隔年開催されており、アジア有数のドキュメンタリー映画の祭典として好評をいただいています。
 当初は手伝い程度のアルバイトだったのですが、1995年から2003年までアジアの新進ドキュメンタリストを紹介する「アジア千波万波」というプログラムの担当となり、東は日本から西は中東やトルコまでの広い地域のドキュメンタリーを見たり、制作者と交友を深めていくことを仕事としてきました。90年代から現在まで、経済や政治が劇的に変わってきたそれぞれの地域で、映像の記録・表現をしようとする現地の人たちの状況を知り、見つめ、その活動を応援することが使命と言えましょうか。
 2009年の今年の映画祭では、東京事務局のディレクターとして、これまでの20年間の歴史を受け継ぎながら今のこの時代と世界を照らし出すプログラムを企画していくことになります。

 私が「長江にいきる 秉愛の物語」の監督のフォン・イェンと出会ったのは、1993年の山形映画祭でした。当時彼女は京都大学大学院で経済学の研究をしていたのですが、アジアプレス野中章弘さんに誘われて来ていました。ドキュメンタリーをたくさん見て触発され、彼女はアジアプレスに所属するビデオジャーナリストとして中国の農村部の現状や学校に行けない子供たちについてテレビ番組を作るようになります。
 そして1997年に初の長編作品「長江の夢」を完成させ、私たち映画祭は「アジア千波万波」プログラムに選び上映しました。この映画は「長江にいきる 秉愛の物語」の原点とも言える内容で、実際若き秉愛さんや夫も登場します。秉愛だけでなく、三峡ダムの建設で移転が長江沿いの村々で大きな話題となっている時期の、女性を中心としたほかの村人たちの姿と言葉が記録されています。「移転」という事件をめぐる群像劇、と言えるかもしれません。
 1997年の山形に来たフォン・イェンが映っている、上映後の質疑応答のビデオがあったので、最近見直してみました。背が高く、細身の体は少し猫背で、長い手足を大きく使って、前傾姿勢で熱弁をふるう。マイクもいらない大きな声で、堰をきったようにしゃべり続けるその情熱は、今と変わらない。今は頭をすっかり剃った坊主頭にしていますが、当時は長い髪を揺らしていました。自分の作った(わが子)「長江の夢」の初上映で、通訳の間も苛立たしいくらい言葉がほとばしり出る。
 でも当時、私は彼女が少し怖かったような記憶もあります。後に親友となり、映画の配給をするようになるにはあと5,6年かかるのでした…。(つづく)

※ フォン・イェンの原点「長江の夢」の特別上映が1月12日(祝・月)、東京渋谷のUPLINK FACTORYであります。ぜひお越しください。
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# by bingai | 2009-01-03 13:47

予告編完成!!

「長江にいきる」の予告編が完成しました。

「長江にいきる」という映画の魅力をどう伝えたらいいのか? 試行錯誤しながら作りました。ご感想お聞かせください。

映画音響の菊池信之さん自ら、予告編のために、そしてyoutube用に音響を設計していただきました!
ユーロスペースではフィルム版も上映中です!!




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# by bingai | 2008-12-23 16:45

フォン・イエン監督来日の一コマ

フォン・イエン監督、来日中のラジオ収録風景です。
(携帯電話の写真で見づらいところご容赦ください)

「ブルー・レイディオ」というインターネットラジオで来年、2009年1月14日(水)と1月21日(水)に以下のサイトにて夜8時に更新されます。
http://www.blue-radio.com/index.shtml

三日間の取材で、朝から晩まで話し続けたフォン監督、喋り過ぎて、口の中にでき物が出来てしまいました・・・。それでも、元気に話すフォンさん。取材された方たちも「元気をもらった」と口々に言っていました。(宣伝H)

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# by bingai | 2008-12-19 13:57